シャトー・ディケム/Château d’Yquem

シャトー・ディケム - Wine Library

Château d’Yquem

甘美を超える白ワインの至宝

 フランス・ボルドー地方サン=テミリオンとは対をなす、南部ジロンド県ソーテルヌ地区において、唯一無二の存在として君臨するのがシャトー・ディケムです。1855年の格付けにおいて「第一級上級(Premier Cru Supérieur)」の称号を授かった、甘口白ワインの最高峰。甘さと熟成、時間の深さを体現するそのワインは、単なる飲み物ではなく、時間と歴史、テロワールの結晶として語られます。シャトー・ディケムの歴史は中世にまで遡ります。12世紀には英王リチャード1世がこの土地を所有していたという記録も残ります。1593年、ジャック・ド・ソヴァージュがこの地を私有化し、その後1711年にはレオン・ド・ソヴァージュ=ディケムが王室から正式に土地を取得、ぶどう栽培を本格化させました。 1785年には、フランソワーズ=ジョゼフィーヌ・ド・ソヴァージュ・ディケムが貴族ルール・サリュース侯爵家と結婚し、ドメーヌは「ラ・マルケ・ド・ルール=サリュース」としての世代を迎えます。

 この長い系譜の中で、ディケムが品質への投資を続けてきたことが、今日の名声を支える強固な基盤となっています。「収穫を断念する」決断を可能にする財務・精神力と、畑・醸造における妥協なき姿勢は、その歴史の中で積み上げられてきました。

貴腐菌が紡ぐ黄金のブドウ

 ディケムの畑は、サン=テミリ(Sauternes)とフォルグ(Fargues)にまたがる約126ヘクタールの土地を有し、うち稼働畑はおおよそ100ヘクタールほどとされています。 この土地が特別なのは、土壌、気候、微気候が奇跡的に重なっている点です。具体的には、グロン川とガロンヌ川の合流点近傍に位置し、朝霧が頻繁に発生することで、ぶどうに対して「貴腐菌(Botrytis cinerea)」が作用しやすい環境をつくっています。土壌は、砂利・礫・粘土・石灰質が層を成し、排水に優れながらも水分を保つ構造となっており、晩秋に至るまでぶどうが樹上で熟度を深められる条件が整っています。このような完璧と言える環境の中、ディケムでは極めて低収量を維持しています。一般的なソーテルヌ生産者が12~20ヘクトリットル/ヘクタールを上限とする中、ディケムでは約9ヘクトリットル/ヘクタールという極小収量が報告されています。これは「最善の果実のみを選ぶ」という哲学が畑から実践されている証です。ディケムが他に類を見ないのは、ぶどうの収穫と醸造にかける時間と手間です。収穫時には1年に複数回(通常6回以上)にわたって畑を回り、最適な時期にボトリティスに侵された房だけを収穫します。畑全体を巡る一巡では済まず、細心のタイミングで何度も選別を行うのがディケム流の「絶対品質」を守る方法です。圧搾は3回に及び、果汁抽出の段階でも慎重を極めています。 発酵・熟成には100%新樽(フレンチオーク)を用い、3~4年にわたる樽熟成を行った後、瓶詰めされる例もあります。醸造責任者の言葉を借りれば、「妥協を許さず、リスクを取ることが卓越への道」という理念が、品質保障の根幹にあります。

 また、非常に重要な点として「質の低い年は、リリースを見送る」というルールがあります。20世紀以降、1910年、1915年、1930年、1951年、1952年、1964年、1972年、1974年、1992年、さらには2012年にはディケムのワインがリリースされませんでした。 これは、ブランド価値を守るための強い意志であり、この覚悟が希少性と信頼性を同時に高めています。

時間と共に花開く芸術品

 ディケムのワインは、まず甘さと濃縮感を持ちながらも、極めて高い酸とミネラルが伴うことで、甘口でありながら“飲み疲れない”構造を有しています。典型的には、若いうちはアプリコット、マンゴー、蜂蜜、カスタードといった熟成香を伴い、そこにレモンピールや白桃、白い花の柔らかなニュアンスが広がります。熟成が進むにつれて、トリュフ、コーヒー、カラメル、ハチミツの煮詰め、そして塩味を帯びたミネラルの複雑な余韻へと変化します。このワインの熟成耐性も非常に高く、正しく保管されたボトルは50年、70年、さらには100年を超えてもなお“生きている”とされます 例えば1811年ヴィンテージのボトルが2011年に英ポンド75,000ポンド(約12万ドル相当)で落札された記録もあります。

 現在、シャトー・ディケムはラグジュアリーグループ LVMH の所有下にあり、その運営体制においても伝統と革新の融合が図られています。近年では熟成方針の見直しやワイン体験施設の充実など、時代に即した施策が進められています。ブランド価値の高さも際立っており、白ワインとして世界で最も高額取引が行われた事例のひとつであることからも、その位置づけは揺るぎないものです。

 シャトー・ディケムは、甘く豊潤な香りとともに、長い時間を味方にして開花するワインです。一口のグラスに、霧に包まれたソーテルヌの畑、手摘みで選別された貴腐ぶどう、そして何世代にも渡る造り手たちの誇りが詰まっています。時間を変えることはできなくとも、このワインとともに時間を旅することは可能です。